Nichibunken Open Access (International Research Center for Japanese Studies Repository)
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    <研究論文>満洲間島地方における間島慈恵病院の設立と朝鮮内の医療体制形成への影響 : 一九〇七年~一九〇九年を中心に

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    1907年8月、韓国統監府は、満洲間島に統監府臨時間島派出所を設けたが、その際、間島慈恵病院という間島における初の西洋式病院も設立した。本稿では、これまで知られていなかった間島慈恵病院の設立経緯と1909年11月の派出所の撤廃までの運営実態を明らかにし、また、同病院がのちの朝鮮内の慈恵医院の創設に与えた影響について考察した。統監府臨時間島派出所は、開設当時から現地住民の懐柔を重視していたが、間島慈恵病院は医療衛生面からその役割を担った。同病院は初代医官の村井静夫一等軍医の働きによって、現地住民はもちろん朝鮮対岸地域からも患者が来診するほどの好成績を収めた。こうした成績の背後には、当時期の間島地方において衛生・医療施設が少なかったこと、無料診療を行ったこと、医療衛生を懐柔の手段とすることを村井が自覚していたことがあげられる。日本側の資料では、患者の高評価が記されており、一定の懐柔的効果があったと考えてよいだろうが、民族別の病院利用率をみると、最大の受益者は現地の日本人住民だった点も留意しておかねばならない。  村井の功績は、韓国駐箚軍軍医部長の藤田嗣章の目に留まるところとなった。藤田の主導によって朝鮮各道に設けられた慈恵医院は、朝鮮の地方衛生の中枢をなす公的医療機関となったが、そこには間島慈恵病院との多くの共通点が見出せる。両病院を比較すると、名称、創設者、設立目的、軍医による施療、朝鮮人を主要な診療対象としたことなどの共通点が見出せ、建物面積、病室の配置、平均患者数、患者の民族構成状況なども酷似している。また人的にも両病院は連続性を持っていた。間島慈恵病院の医官であった村井静夫と小野純一はのちに朝鮮内の慈恵医院長に任命されている。こうした共通点と連続性は、朝鮮内の慈恵医院が、間島慈恵病院をモデルにしていた可能性が高いことを示している。  創設期の朝鮮内の慈恵医院長と間島慈恵病院の院長14人の経歴をみると、12人は外地経験を持っていた。彼らは陸軍軍医→清国・台湾・朝鮮→朝鮮慈恵医院長というルートで昇進していった。朝鮮慈恵医院長の選定において、軍医の外地経験が重視されていたことが分かる。村井と小野の場合も外地経験者であると同時に、とりわけ間島慈恵病院の運営経験者であることが考慮されて、特に抜擢されたと考えられる。journal articl

    <研究論文>「大正デモクラシー」期における「臣民」の形成 : 井上哲次郎の神道論を中心に

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    近代日本という国民国家の発展とその中における「臣民」の形成を理解するには、国体思想と「民主主義」との関係性を、二元対立的な図式でではなく、相互に影響し吸収し合うという視点で捉える必要がある。本稿では「大正デモクラシー」期における、井上哲次郎(1856-1944)の神道論の展開を中心に、国体思想と「民主主義」との複雑な関係を考察する。  日露戦争での勝利をきっかけに、井上は神道についての研究を始めた。この段階において、井上は神道における「祖先崇拝」の論理を抽出し、日露戦争で勝利した原因を説明しようとした。しかしこの段階の神道研究は、まだ「国民道徳論」の一部分として扱われており、独立した理論まで発展していなかった。  1912年の三教会同の頃、井上は神道の「徳教」としての重要性を意識するようになり、体系的な神道論を創ろうとした。この理論化の過程には、国体思想の改造と民主的思想の改造という二つの方面が存在していた。一方は、井上が神道における「祖先崇拝」の論理を、国民が神々の人格的優越性を承認する論理へと改造した過程である。国民の内面まで浸透できるようになった神道論は、「国民道徳論」の中核であった「家族制度」論をもその一部分として吸収し、体系的なものへと発展した。もう一方は、井上が第一次世界大戦後の世界的な「民主的傾向」に直面し、「民主主義」に発見した「人民の意思」を「シラス」論に取り入れ、民主的思想を改造することによって神道論を更に展開した過程である。この過程で、井上は臣民の主体性を国家と「国家の恩人」たる神々に回収する論理を創出した。  二つの改造を経た井上の神道論は、主体性を発揮できる「臣民」を創出する、新しい段階の国体思想となった。井上の神道論についての考察を通じて、近代における国体思想と「民主主義」との関係、そして国民国家のあり方を捉え直す新しい視点が獲得できよう。journal articl

    基礎領域研究

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    共同研究

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    <研究資料>〈資料翻刻〉称名寺聖教『安楽集論義』

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    本稿は、神奈川県称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫管理)の国宝称名寺聖教『安楽集論義』を翻刻し解題を付したものである。本書は中国唐代の浄土教の僧侶である道綽(562-645)が著した『安楽集』について、問答形式でその注釈を展開している。  本書の成立・撰者については、表紙に「良聖」の名前が記されていること等に鑑みて、先行研究では浄土宗三祖の良忠(1199-1287)によって鎌倉時代中期の東国地域に撰述されたと推測されているが、本書が撰号・奥書を失することから断定までには至っていない。そのような影響もあってか、本書に関する研究は等閑に付されがちであり、資料も未翻刻のままであった。しかし、鎌倉期における道綽『安楽集』の注釈書は貴重であり、さらにその内容を詳しくみてみると、道綽と同じく浄土五祖に数えられる曇鸞(476-542)や善導(613-681)に関する記述も散見される。すなわち、鎌倉期の東国における中国浄土教の受容を窺う上でも本書は貴重な資料であるといえよう。  また、本書が成立したと思われる鎌倉中期頃の東国地域は、良忠のほかにも親鸞(1173-1262)や証空(1177-1247)といった、さまざまな浄土教諸師が教線を伸ばしていたことが確認され、解釈の相違から教学論争に発展していたことが知られる。しかしながら資料の制約もあり、その全容を窺うには未詳の点も多い。そのような中で、問答形式で注釈がなされた本書は、当時の東国浄土教ではいかなる阿弥陀仏信仰が展開されていたのか、またどのような点が教学的な問題と捉えられていたのかを窺う上でも示唆に富む内容である。  このように本書は、鎌倉浄土教研究の発展において有用な資料であると評することができ、本翻刻の公開によって、鎌倉浄土教における中国浄土教の受容や、東国地域における浄土教の実態の解明に資することが期待される。articl

    <書評>鈴木繁、ロナルド・スチュワート『マンガ : 批評的ガイド』

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    <研究論文>植民地台湾の国民学校における勤労動員と帝国の学知 : 士林国民学校『学校日誌』(一九四三~四五)を中心として

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    日本は戦争末期に人的資源が不足したために、1940年代以後、学生、生徒をさまざまな生産現場に動員した。この学徒勤労動員は日本本土ばかりでなく、植民地台湾でも実施された。本稿は「帝国の学知」との関連に着目することで、「時代」と「現場」に焦点を当て、大規模で組織的な勤労動員がいかに実現されたかを解明するものである。  資料としては、台北の士林国民小学に所蔵されている『学校日誌』という学校文書を主軸とした。現存する『学校日誌』から確認しうるかぎりでは、台湾の学校日誌は、校長による検印欄や、1頁に2日分という形式でスペースを限定する配置などが内地よりも早くできあがっていた。そのことは、植民地台湾の学校日誌が、学校活動が滞りなく行われているのを校長が迅速に確認するための資料という性格をより強く持っていたことを示している。  1943年から終戦後の1946年9月まで欠かさず記録し続けられた『学校日誌』からは、戦争末期における児童の勤労動員の実態が読み取れる。児童は主にそれぞれの学区の農村での農作業に動員された。目標は食料の増産や経済的作物の栽培と採集であった。動員対象は法規に明文化されていた高等科の児童ばかりでなく、初等科高学年および中学年の児童も能力に応じて協力を求められた。  学校日誌の記録の中で最も注目すべきは、蓖麻の植え付けの推奨と茄苳葉の採集作業である。本稿では、特に、1944年中期以後集中的に、児童が大量の茄苳葉を採集することを求められていた点に目を向けた。これは台北帝大附属病院薬局長の塚本赳夫が台湾のいたるところにある茄苳樹の葉から、高い割合で酒石酸を抽出できるという研究を発表したことが背景となっている。台湾で行われた学術研究は、台湾の特産物を利用して帝国の戦争の需要に貢献することを目指していた。この研究の出発点は、台湾現地住民による薬用植物の利用から科学的知見を引き出すことにあった。  学校日誌に象徴される「学校管理の知」と茄苳葉の利用に象徴される「植民地科学の知」が結合することにより、台湾国民学校の児童はそれまで以上に集中的に勤労動員に巻き込まれていったのである。journal articl

    <口絵>口絵解説 : 絵葉書「伊勢朝熊山圖繪」

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    <書評>白根晴治『帝国のゲートウェイ : 植民地台湾と日本の南中国・東南アジアへの拡張』

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    <RESEARCH NOTE>Care, Ethics, and Omoiyari : Doing Ethnography in Japan

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    This research note proposes an adapted version of an ethics of care that begins from the position of omoiyari, empathy based on close attention, as a means of creating an ethical framework for ethnographic study design, research practice, and writing. Applying this ethical intention to research practice can enrich engagement with the focus of research, whether that focus is a person or a group of people, or a text or archive. Drawing from a four-year ethno-historical research project in Japan, I demonstrate how omoiyari, applied as an adapted ethics of care, can show us new aspects of a research field and the study participants we work with, and identify design errors in the research plan as well as how to amend these errors. Finally, I explore writing strategies that not only underline the ethics of care shaping the research but also attempt to engage the reader in a relationship of care with the study participant. Weaving an omoiyari-informed ethics of care through research project design, fieldwork, and writing practices in this way can address care theorist Nel Noddings' call to "build the conditions under which caring can flourish."journal articl

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