TAKUSHOKU-University 拓殖大学 機関リポジトリ
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    913 research outputs found

    What Is the Impact of International Standards and Rules on Compliance of Companies with Work Rules?

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    本稿では,ワークルール(労働法)の遵守強化に関わると思われる国際的な動向とその影響について検討する。 近年,これまで主に単なるコンプライアンス(法令遵守)の観点から論じられていたワークルール遵守が,人権に関する問題として論じられるようになってきた。他方,自社のみならず,生産等の委託先,原材料等の調達先,製品等の販売先や投資先などが,ワークルールなどのルールを各国で遵守しているかが問われ,自社の製品・サービスのサプライチェーンへのチェック(デューディリジェンス)が問題になってきている。 こういった動向が企業のワークルール遵守にもたらす影響は大きいが,限界もある。まず事業展開が国内限定の場合には影響が少ない。また規制内容はILOの「中核的労働基準」の項目が主で,長時間労働などは含まれない。さらに企業の方針や取り組みの情報開示を求める規制の場合,実質的な意味が必ずしも大きくないなどの問題がある。departmental bulletin pape

    Systematization of Disastrous Rain Record for the Improvement of Resilience in Hospital

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    日本での地震を始めとする自然災害は,諸外国に比べて頻発しており,災害への備えが重要である。人命に関わる医療の提供が滞ると,他の産業が停滞するなどの影響が出るため,医療は社会インフラとして欠かせない機能だといえる。いつか発生する災害には,発生しても被害を最小限に抑え,事業を継続し,素早く復旧できる体制を整えておくことが重要である。事前の準備には様々な手段があるが,災害経験を記録に残し,自施設の体制整備や他施設にも活用することには意義がある。一方で,記録をどのように残せば,事前準備に貢献しうるかという視点を研究することで,事前の準備をより効果的にすることができると考えた。そこで,地震対応を主目的とした医療機関におけるレジリエンス向上をもとにして,豪雨災害での記録について考察することとした。記録のフォーマットを提案し,既存の記録を整理することで, レジリエンス向上に向けた記録の活用方法についても検討した。 最後に,本研究は医療における地域レジリエンスの向上の一部に資する可能性があるが,具体的な活動を他地域や他の豪雨災害にも適用し,本研究の提案手法の妥当性を検証する必要がある。departmental bulletin pape

    《Selections from the Repertory of Operatic Songs and Terpsichorean Melodies of Mei Lan-fang》and Liu Tian-hua

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    『梅蘭芳歌曲譜』は1930年の梅蘭芳アメリカ公演に向けて作成された楽譜集で,梅蘭芳の独唱部分を五線譜と工尺譜で記録したものである。採譜を行ったのは当時北京大学などで音楽教師を務めていた劉天華(1895-1932)であった。 本稿ではまず,構成,収録作品,編集過程の3項目を中心に『梅蘭芳歌曲譜』の概要を紹介する。 次に,『梅蘭芳歌曲譜』の「編者序」に見られる劉天華の楽譜に対する考え方を論じる。劉天華は中国の古代音楽が散逸した最大の原因を科学的な記譜法の欠如だと考え,その確立の必要性を主張していた。『梅蘭芳歌曲譜』の編集はその実践と位置づけることができる。 続いて「凡例」を手がかりに,劉天華が『梅蘭芳歌曲譜』に施した工夫や,記譜作業に対して抱いた限界について述べる。劉天華は工尺譜に数字譜の要素を取り入れてリズムの表記を可能にしたり,西洋音楽に存在しない奏法(唱法)の記号を創作したりするなどの工夫をすることで,正確で詳細な記録を試みた。しかしその一方で,五線譜によって中国伝統劇特有の即興性を表現することの難しさを感じていた。 『梅蘭芳歌曲譜』はアメリカの観客に提供された手引きにすぎず,その後の梅蘭芳の芸の継承に直接影響を与えることはなかった。 1940年代に数字譜版が発行され,戦時下の京劇ファンによって広く読まれた。departmental bulletin pape

    A Tentative Translation on the General Provisions of the Civil Code in China

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    Reading Proficiency of Japanese University Students Majored by OECD’s PISA Questions

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    児童・生徒・学生の読解力の低下が叫ばれるようになって久しい。特にOECDが2000年から実施しているPISAの結果が日本の教育関係者に衝撃を与えることになったことは周知の事実である。2003年度の調査では,日本人の読解力は参加40ヵ国中14位となった。その際,情報の取り出しはできるが,情報の解釈や統合,評価は苦手で,記述問題の無回答率が高いという日本人生徒の特徴が指摘された(文部科学省,2005a)。PISAの調査対象は15歳の生徒たちであるが,この日本人の特徴は高等学校および大学教育を受けることで解消されるのか,大学3年生と4年生にPISAの問題を解いてもらい,現状の把握を試みた。調査の結果,本調査の参加者は,情報の取り出し,特に図表の解釈が苦手であるということが分かった。また,自由記述の回答から,読解力に対する自己評価が低い,日本語の読解に外国語(英語)の読解方略を利用している,4年生に関しては自己分析・自己評価をしていることなどの傾向が見られた。departmental bulletin pape

    The Saigoku Kannon Pilgrimage in Taiwan Under Japanese Rule ―Current Status, issues for preservation and maintenance, and tourism resource conversion―

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    本論では台湾に残る日本統治時代に造られた4つの西国三十三所の写し霊場(台北,新竹,基隆,宜蘭)に注目し,現況を報告すると共に保存・維持について考察を行った。現在4つの霊場では,巡礼は行われなくなったものの,一部の観音石仏が残されていることが分かった。台北と宜蘭では観音石仏の3分の2以上が消失していたのに対し,新竹と基隆では逆に3分の2以上が残されていた。これは霊場の規模や戦後の管理状況の違いに関係していることが示唆された。現在の状態も各地で異なっていたが,多くの場所で石仏に彩色や装飾が施され,信仰対象として保存されていることが分かった。また新竹では公園化し観光資源として利用されていた。しかし文化財保護としては不十分であることから,今後の課題として歴史的価値を高めていく必要があることを示唆した。departmental bulletin pape

    Turning Period of Taiwanese Modern History as Seen by a French Officer, Autumn 1896

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    台湾の日本統治時代初期は,下関講和条約(1895年4月17日)と日本軍の最初の台湾出兵(1895年5月29日,基隆)から児玉源太郎陸軍中将の台湾総督任命(1898年2月26 日)に至る時期で,台湾近代史の転換期であった。その時期に台湾を訪問した欧米人は少数で,彼らの残した記録には史料的価値がある。駐日フランス陸軍武官クロード・ド・ピモダン少佐(Claude Emmanuel Henri Marie de Pimodan; 1859-1923年)は,駐日在任期間中(1896~1898年)日本各地,朝鮮半島,中国などを旅行した。ピモダンは,1896年10~11月日本陸軍高官視察団員(外国人の参加は一人)として台湾を訪問した際の旅行記(日記)を単行本『極東旅行記(1895~1898年)』(1900年)として公刊したが,これまで,著者もその作品も忘れさられ,研究されることもなかった。台湾の植民政策史から見れば専門的軍事・政治情報に乏しいが,ピモダンの日記は,現地の「生々しい」印象の記録であり,興味深い感想を含む。台湾人による反日ゲリラ戦争の性質と戦術,治安問題,雲林虐殺事件直後の現地台湾人に対する日本軍の待遇などについての証言,また初期における日本植民政策の問題に関する見解が見られる。史学的に見ればピモダンが語った出来事は「野史」と言えるが,「正史」の研究のためにも重要である。本稿は,その史料を紹介・分析するものである。departmental bulletin pape

    Research on Kanji(Chinese characters)to Elucidate Japanese Culture

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    漢字が中国大陸から日本列島に伝わってほぼ二〇〇〇年を経た。ことばを記録する正規の文字―真名(まな)―として、またそれ以上に、優れた文化体系を伝える概念の集合として智慧の宝庫として、日本という国の誕生、形成、変貌、或は再生を促す原動力となってきた。「日本」という国の名は、「ニホン」又は「ニッポン」が「日本」と表記されたのではなく、漢字によってもたらされた文化を踏まえて漢字で命名されたものである。そして「日本」という漢字によって命名された国名を、漢字本来の発音をまねて「ニホン」又は「ニッポン」と呼んだのである。 漢字の音読には呉音、漢音、唐音の三種ある。それぞれに漢字の表す概念を学び、導入した際の状況が反映している。まだ定説を見ない部分も多いが、呉音は六世紀以前に朝鮮半島から、漢音は七世紀の遣隋・遣唐使が直接中国の王朝から、唐音は一〇世紀以降主に僧侶が中国の仏教寺院からもたらした。同じ一つの漢字に三種の読みがあるのは、中国の異なる時代で変化した同じ漢字の三つの概念やものを導入したということである。そして一五〇年ほど前、明治維新の際、漢字には、中国人の与り知らぬ西洋語の意味、概念が加わり、中国にも輸出された。漢字は、日本の歴史の節目節目に違う姿をもって現れる。 本稿は、古代における漢字漢語の受容、中世、近代におけるその変容から「日本文化とは何か?」を解明しようとするものである。departmental bulletin pape

    Influence of Linguistic Situations on a Bilingual Writer Jean Ray/John Flanders in the 20th Century Belgium

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    本稿は,20世紀のベルギーにおいて,使用言語が小説家の活動および作品の受容にどのような影響を与えていたのか,バイリンガル作家ジャン・レー(Jean Ray)/ジョン・フランダース(John Flanders)を対象に考察することを目的とする。フランスおよびベルギー・フランス語圏を中心に,「ベルギー幻想文学の大家」として知られるジャン・レー(1887-1964)は,ジョン・フランダースという別のペンネームを使い,母語であるオランダ語でも多くの作品を世に残した。オランダ語の作品は,主に雑誌や新聞に掲載するための短編がほとんどで,なかでも青少年向けの作品が多いのが特徴である。その影響もあり,ジャン・レーとジョン・フランダースは同一人物であるにもかかわらず,そのイメージは,言語圏によって大きく異なる。本稿ではその差異に注目し,ベルギーの言語事情と照らし合わせながら同小説家の活動遍歴をたどり,文芸作品における言語の使い分けと受容の関係を探る。departmental bulletin pape

    English Education at Middle Schools in Kanagawa Prefecture before WWII(2): With a Focus on Native English Teachers at Middle Schools(No.4-No.6)

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    Before WWII Kanagawa Prefecture hired native English teachers at middle schools, in order to enhance the quality of English education. I have decided to publish two papers: one covers from No.1 to No.3 middle school, and the other from No.4 to No.6 school. In this paper I focus on the last three middle schools(No.4 to No.6 middle school). Kanagawa Prefecture founded a middle school in 1887, the last among 47 prefectures. This prefecture, however, was very much influenced by an international climate encouraging English education owing to Yokohama city having importance as an international port. At that time, generally, the quality of English education was high, also in the last middle school, as Hosaka(2021)stated. According to this research, I’ve come to the following conclusions. (1) The prominent principals at the three middle schools decided to hire native English teachers, despite having to pay them high salaries. (2) Many of the native English teachers working at middle schools were not novice and they had long teaching experiences, despite being part-timers. M.Duncan, for example, had worked at Atsugi(1932~?), Kawasaki(1935), Yokosuka(1936), Shonan(1936-1937)and Odawara middle schools(1937). (3) Mr.Peake had taught English at Shonan middle school(1922-1923)and had many good memories. His teaching experiences at Shonan led to Fujisawa not being bombed during WWII. (4) Mr.Bavier was one of the staff who developed the excellent English Education well known as The Shonan Method in the history of English education in Japan.departmental bulletin pape

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