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    ウラベ ヒロシ ノ サンミイッタイ ノ ホイク ウンドウ ホイク ケンキュウ ホイクジョ ヅクリ ロウドウ ウンドウ

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    学習院大学Gakushuin University博士(教育学)Doctor of Education浦辺史は、保育運動を、戦前と戦後を通し長期にわたり牽引した保育研究者である。本研究の主題は、浦辺の「新しい保育」の源流と展開を、戦前から戦後にわたる教育実践、保育実践、調査・研究の経験のうちに探り出すとともに、「新しい保育」の探究過程で形成された「三位一体の保育運動」論が、保育史上にもたらした創造的価値を浮彫りにすることにある。 浦辺史の実践の出発点は、小学校教師時代の「悪い社会」を教育によって変えるという志にあり、その後教育から保育へと実践の場を移してからも、社会変革への志向は1980年代まで変わらなかった。浦辺史にとって保育運動は、民主社会を実現する「新しい保育」への具体的過程であった。戦前、城戸幡太郎が教育のために家庭や社会を再構成しようとした、つまり社会・文化の自己革新運動を保育研究の基盤としたのに対して、浦辺は反対に「新しい保育」を探究する営みそのものが社会変革を起こし民主社会を実現する道程であると考えていた。 これまでの浦辺史に関する研究はいくつか存在するが、小学校教師、東京帝国大学セツルメント託児部の活動など、比較的短い時期を対象として、個別に浦辺の実践、研究、思想の検討が行われてきた。しかし、浦辺の思想の核となるのは、実践と研究に基礎づけられた「新しい保育」と「新しい保育所」である。「新しい保育」の本質を捉えるには、浦辺の生涯にわたる実践、研究の経験の検討を通して、思想の変遷を解明する必要がある。また、先行する保育史研究、保育運動史研究においては、保育研究と労働運動の相互関係が保育運動全体に及ぼすダイナミクスについて論じられていない。取り上げられてこなかった理由として、浦辺史の「三位一体の保育運動」が検討されてこなかったことが考えられる。 浦辺史の「三位一体の保育運動」(1962年)は、保育所の不足や保育内容の向上、保育者の劣悪な労働環境の改善を求めて提唱された、保育研究運動、保育所づくり運動、保育者の労働運動が連動しながら一つの大きな潮流の形成を目指す、という運動の手法かつ理念である。浦辺史の「三位一体の保育運動」を主題とする本研究は、保育運動が政策決定や制度改善に影響を持ちうる勢力を持つための条件という保育運動の核心を明らかにする一助となる。 本研究の特徴は、二つある。一つは浦辺を特定の時期において捉えるのではなく、1920年代半ばから1970年代という長期にわたる実践、研究、保育運動への取り組みを、「新しい保育」による社会変革の道程として捉え、検討する点にある。もう一つは、これまで保育史研究、保育運動史研究で言及されてこなかった、戦後の保育運動における、保育研究運動と保育者の労働運動の相互関係の解明と意義を提示する点にある。 浦辺史の戦後の保育への貢献を特色づけるものは三つある。一つめは、保育研究運動、保育所づくり運動、保育者の労働運動という三つの運動を関連させより大きな運動へと導くという「三位一体の保育運動」の推進である。二つめは保育者と保護者の学習と共同が民主主義を醸成するという思想である。三つめは「新しい保育」の希求である。「新しい保育」は他の二つの目的である。このうち一つめに含まれる保育者の労働運動は戦後に加味された要素であるが、それをのぞいて、すべて戦前に源流を持つ。特に一つめに含まれる保育研究運動と二つめの共同に関する思想、三つめの「新しい保育」は、戦前の無産者託児所及び東京帝国大学セツルメント託児部に代表される「新しい民主的保育所」の経験から生まれた。  本研究では、「新しい保育」が発想された時期の描出と戦後への影響、戦後の浦辺の「三位一体の保育運動」論の意義という主題を、1920年代半ばから1970年後半にいたるまでの浦辺史を、従事した職ごとに時期区分し、それぞれの実践や行動、執筆記事や論文にあらわれた考えを形成的に捉える。ただし、「三位一体の保育運動」を提唱した1962年の前後の時期については、浦辺の仕事が多岐に渡るため、日本福祉大学における研究と保育者養成教育を中心とした第7章と、保育運動へ取り組みを中心とした第8章と二つの視座から捉えることとした。 9つの章で主題に対する考察を行う軸として、課題を三つ設定した。一つめは、小学校教師時代に灯され生涯消えることのなかった社会変革への意識の変遷を、戦前、戦後の保育研究・保育者養成・保育運動の仕事のなかに探り出すことである。二つめは、浦辺が公私双方で目指した、生活の共有と学び合いによる民主的な人間関係の生成を、具体的な出来事から叙述することである。三つめは、昭和初期から1970年代までの道程において、それぞれの時代に浦辺が抱いた「新しい」保育者像の変容を叙述することである。 第Ⅰ部では、1925年から1943年までを第1章から第4章において検討した。 第1章では、浦辺の小学校教師時代の教育実践と同僚との共同生活の詳細を考察した。最初の赴任地である多摩郡の浅川小学校で、浦辺は農村の子どもたちの貧困に胸を痛めペスタロッチの「悪い社会」を変えるという思想に心酔した。同僚との共同生活のなかで、浦辺は『教育問題研究』に影響された新教育の教育実践と研究、地域の人々との交流を深めていった。浦辺は小学校教師時代の教育実践と同僚との共同生活の経験によって、個性と自主性を育む場としての集団、生活の共同による対等で民主的な関係の生成、という生涯の実践と研究のテーマを得た。特に前者は、集団のなかで育つ子どもという、浦辺の「集団保育」モデルの根拠となった。 第2章では、新興教育研究所の所員として新興教育運動に身を投じた1931年7月から1932年10月の時期を中心に取り扱う。不当馘首によって教師の道を断たれた浦辺は、特別高等警察を警戒し住居を転々とする暮らしを送りながら機関誌『新興教育』の編集や執筆に携わる一方、同研究所の組織内部の矛盾と、知識層が大衆の階級意識を扇動するという、上からの啓蒙の限界に悩む。特別高等警察に捕らえられた後、浦辺が手記に描いた啓蒙の手法は、農民が自らの手で教育を行うという方法であった。この時期、マルクス主義への期待感は、教育運動と大衆の乖離によって失望へと変わる。第2章では、浦辺の教育運動の試みと挫折が、浦辺が東京帝国大学セツルメントで構想した啓蒙と地域の変革の礎石となったことを示した。 第3章では、浦辺が保育に「開眼」した東京帝国大学セツルメントの日々を、保育実践の内容と機関誌『児童問題研究』の執筆記事の検討によって浮彫りにする。浦辺は東京帝国大学セツルメント託児所の保育実践と研究によって五つの概念モデルを形成した。すなわち、地域の共同と自律した保母によって運営される「新しい保育所」、教育的視点と実践研究で更新される「新しい保育」、母親及び同僚と対等に結び合う自律した保育者、「自己教育」と共同による啓蒙の装置としての「母の会」、育ち合いを主眼とする「集団保育」である。これら五つのモデルの構想を促したのは、抑圧者のいない自由な環境のもとで育まれた、保母との対等で民主的な人間関係であった。 第4章では、浦辺が天照園子供の家の「男保母」、東京市社会局の寺島方面館方面係、社会事業研究所所員という三つの職を経験し1943年5月に逮捕されるまでの、保育に対してより俯瞰的な視点を獲得した時期を取り扱う。天照園子供の家の保育実践において、浦辺は「集団保育」の有効性に確信を得たが、一方で、政府の政策の不十分さと民間慈善事業の欺瞞の問題と、スラムでの地域共同は実現不可能であるという「新しい保育所」の限界性をもつきつけられた。社会事業が孕む構造的問題を直感した浦辺は、保育問題研究会で中心的役割を果たす一方、社会事業研究所で全国規模の保育施設の調査『本邦保育施設に関する調査』(1943年)に取り組んだ。浦辺は調査によって、幼稚園と託児所の一元化の必要性、保育設備と保育内容の格差、保育施設の地域偏在の問題、保母の専門知識、教養の貧困など、戦後につながる保育の課題を発見し、「戦時保育施設標準設定のために」(1942年)で保育の規格化を提案した。戦前の主著『学齢前児童の諸問題』(1936年)に見られるオーエンの思想への傾倒と勤労女性の解放の主張、『本邦保育施設に関する調査』に提示される「新しい保育所」はすなわち「地域の生活文化の拠点」であるというアイディアは、戦後につながる保育への課題意識の起点となった。 第Ⅱ部は、終戦直後から浦辺が日本福祉大学を退職するまでの時期を対象とした。 第5章では終戦直後からの5年間の、民主保育連盟結成や総合生活研究所での調査、新しい家庭科教科書作りを検討し、この時期が戦後の浦辺の思想と行動の起点であることを示した。 浦辺が結成に携わった「民主保育連盟」は、保母を労働者として捉える視点、研究による自己教育、保育所づくりを理念に含んでいる点で、1962年の「三位一体の保育運動」の構想の萌芽であった。羽仁説子とともに取り組んだ家庭科教科書では、生活への科学的視点の導入による家父長制からの脱却、女性の権利の保障の意識が明確に表れている。浦辺の女性の権利保障への捉え方は、戦前の女性の自覚と行動を前提としたものから、男性の意識変革による家族制度の民主化を基盤とするものへと深化した。 第6章で扱った国立身体障害者更生指導所の舎監としての実践は、戦前の二つの経験の応用と発展に特徴づけられている。身体障害によって心に傷を負った人々同士、彼らと社会福祉の実践者、社会福祉の実践者同士という三つの民主的な関係は、東京帝国大学セツルメント託児所で探究された「新しい託児所」の三相の関係の応用であり、困難を抱えた当事者が生活の協力と学び合いによって自己の尊厳を回復し、自治と共同を叶える方法は、小学校教師以来の浦辺の共同のスタイルを発展させたものである。  第7章では浦辺の「三位一体の保育運動」(1962年)の構想の基礎が、中部社会事業短大(後の日本福祉大学)赴任後の大学教育及び史的観点からの社会事業研究にあることを示した。福祉事業従事者は実践で把握した課題の改善のため、行政や政治に働きかけるとともに、国民全般に情報公開することによって社会的な認知を広めていく「ソーシャルリフォーマー」の役割を持つ、とする見地は、浦辺に新たなビジョンを与え、1960年代前半の保育運動の理論的支柱の一つとなった。さらに、保育者養成課程の実習を通した地域の農繁期保育所づくりの試みや、1959年の伊勢湾台風被災における全学あげての救援活動の先導など、大学教育の中で生まれた実践も、浦辺の「三位一体の保育運動」構想の理論的基盤となった。 第8章では、「三位一体の保育運動」を構成する三つの運動、即ち保育研究運動、保母の労働運動、保育所づくり運動のうち、特に大きな要素である前者二つの詳細を、民主保育連盟(1946年~1952年)と東京、福島など各地で起こった1950年代の保母の労働運動との関連とともに明らかにした。浦辺の「三位一体の保育運動」における保育研究運動とは、城戸幡太郎が「これからの保育研究運動の目標」(1962年)で提唱した「実践家と理論家との協力による実践行動」によって「現実の保育問題にたいするリアルな認識」を研ぎ澄ましていく営みを基礎としていた。「三位一体」のうち、浦辺の主張する保育研究運動で重視されたのは、保育の歴史的・政治的な意味、経験主義の克服と創造性重視の幼児教育、制度と政策の研究及び保育者の労働条件、幼保一元化の遅滞による弊害、の四点である。三点めの示す通り、浦辺のいう保育研究運動は、保母の労働運動という要素を包含しており、民主保育連盟や東京保母の会など、保母による保育研究と労働運動が同一の場所で行われてきた、という歴史的経緯を踏まえたものであった。  1960年代に入ると、浦辺が支援する二つの集団で保育運動の光と影を象徴する出来事が起こった。光の側面は、私立園に勤務する若い保母たちを中心とした京都私立保育園保母労働組合の結成(1961年11月)であり、影の側面は、ヤジエ・セツルメントの廃園(1962年8月)と保母の解雇である。ヤジエ・セツルメントをめぐる出来事が地域の保育運動の限界を示す一方で、京都私立保育園保母労働組合の設立への動きは、労働運動の持つ可能性を示す出来事であった。同時期に起こった二つの出来事は、地域の保育運動の限界を、地域を超えて結び合う労働運動の力によって補完し乗り越えるという発想を生んだ。くわえて浦辺は各地の保育グループを保育研究のネットワークとして編成を目指した。保母の労働運動と保育グループのネットワーク化という二つのアイディアから、「三位一体の保育運動」の構想が生まれた。 第Ⅲ部、第9章では、全国民間保育団体合同研究集会(「保育合研」)の第一回(1969年)から1980年代前半までを検討した。「三位一体の保育運動」は1970年代半ばまでは保持されたが1970年代後半から労働問題の分会の参加者数は減衰したばかりでなく、問題の取り扱いの難しさから分会は縮小し、1980年代半ばには「三位一体の保育運動」の影響は消失した。以降、「保育合研」を含めた保育運動は、研究運動を主としたものへと変容し、保育研究と保育者の労働運動は分断された。1970年代半ば、全国レベルでの保育運動では労働運動の影が薄れた一方、浦辺が保育所づくり運動の実践として創設したこぐま保育園とその周辺の永山地区では、保育研究運動、保育所の改善を目指す地域の運動、労働組合の運動が互いにエネルギーを補完しながら、創造的な保育と地域の共同の生成が行われた。こぐま保育園の事例は、地域と保育の接続に携わる人々が直接的に感じ取れる規模においては「三位一体の保育運動」が有効であることを示唆している。  浦辺の示した「三位一体の保育運動」の保育史上の意義は、「小異を超えて」結び合い運動を政策決定に影響を持ち得る勢力へと導く手法が具体的に提示されたこと、1960年代前半から1970年代半ばまでの保育運動の全国への波及に貢献したこと、労働運動が保育者の当事者意識を高めるだけでなく、実践や研究と分離できないものであることを示したことである。「新しい保育」を求める浦辺の道程は、保育者と保護者、地域の人々が共同し学び合う過程で実現する「新しい保育所」と、自律的な市民としての保育者と保護者による保育運動によって民主社会の実現を企図した、社会変革者としての歩みであった。浦辺の「保育所は民主主義の学校」という言葉は浦辺の求めた「新しい保育」を象徴している。社会変革の過程としての保育運動を永続させるため、構想されたのが「保育研究運動」、「保育所づくり運動」、保育者の労働運動、という三つの運動が「三位一体」となって互いにエネルギーを補完し大きな勢力を維持する「三位一体の保育運動」であった。 浦辺は実践および研究を通して、「新しい保育所」を運営する「新しい」保母、「新しい」保育者モデルを五つ得ている。一つめは東京帝国大学セツルメントなどの無産者託児所の「未来の社会」を求める自律した保母、二つめは保育問題研究会や社会事業研究所時代に出会った実践と研究の往還のなかで幼児教育を究める保母、三つめは焼け野原のなかで子どもを守るため連帯する民主保育連盟の保母、四つめは名前と顔を持ち地域の人々と共同するヤジエ・セツルメントの保母、五つめは劣悪な労働環境からの脱却を求めて運動する保母、である。 本研究の現代的意義は次の三点である。一点目は浦辺史の生涯にわたる保育運動への取り組みの検討を通して、厳しい労働環境の続く現代の保育状況の解決への糸口は保育者の労働運動にあると示したことである。二点目は、戦後の保育運動がたどった経緯の検討によって、保育研究における労働環境の研究、保育政策研究の重要性を明らかにしたことである。三点目は浦辺の「新しい保育」の探求の道筋を描出することによって、民主主義や共同体を生成するという保育及び保育所の特質を再発見したことである。 残された課題は三点ある。一つめは、浦辺の「三位一体の保育運動」の消失を招いた保育者の労働運動の停滞と減衰の直接的な理由を明らかには出来なかったことである。その探究には、戦後の公務員保育士の労働運動、多職種の労働組合の動向の詳細な把握を必要とする。二つめは、浦辺が生涯を通じて社会変革を志向していた以上、政治的意見や行動の検討が必要であるが、本研究では、保育と保育運動に関連する論文、行動のみを研究の対象としたために、政治に対する考えについて未検討である。三つめは、浦辺の社会福祉研究の包括的な検討である。本研究では、浦辺の保育研究や保育運動への考えに影響を及ぼした日本福祉大学時代における社会福祉論文のみ取り扱ったが、社会福祉学の視点から浦辺の保育思想の形成を捉えることは、今後の課題として残されている。application/pdfdoctoral thesi

    ダイチョウキン ノ DNA 二ホンサ セツダン シュウフク ニオケル カクヨウタイ ノ ジクウカン セイギョ キコウ

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    学習院大学Gakushuin University博士(理学)Doctor of ScienceDNA二本鎖切断(DSBs; double strand breaks)はDNA上で生じる最も重篤な損傷であり、電離放射線や化学変異原、複製フォークの阻害などによって引き起こされる。DSBは染色体構造の局所的な崩壊を引き起こすため、DSBが修復されない場合や不適切に修復された場合は、染色体レベルのゲノム不安定性が引き起こされ、これはヒトにおける発がんや老化の原因になっている。DNA相同組換え(HR; homologous recombination)修復は進化的に保存された機構であり、DSB部位周辺と相同な配列を持つ姉妹染色体を修復の鋳型として用いることで、DSBの正確な修復を可能にしている。大腸菌ではDSBの大部分が相同組換え経路によって修復されることが知られており、これまでの解析から以下のような分子モデルが提唱されている。大腸菌において、DSBが生じた場合、RecBCD複合体がDSBに結合し、DNAの5’末端側が削り込まれて3’末端を持つ一本鎖DNA(ssDNA; single-stranded DNA)領域が作られる。次に、ssDNAにRecAタンパク質がフィラメント状に結合し、RecAヌクレオプロテインフィラメント(通称;RecAフィラメント)が形成される。RecAフィラメントは結合しているssDNAと相同なDNA配列を姉妹染色体から探し出し、ssDNAを相同な二本鎖DNAに侵入させ、D-loopと呼ばれる構造を形成する。D-loopが形成されるとssDNAの3’末端がプライマーとなってDNA修復合成が起こり、DSBにより失われた塩基が挿入される。DNA修復合成が完了すると、ホリデー構造と呼ばれる2つの二本鎖DNA鎖が交差した組換え中間体が形成され、その後RuvABCヌクレアーゼ複合体によってホリデー構造が切断されることで組換え体が作られる。DSB部位と鋳型となる姉妹染色体間の組換え反応は、HRを介したDSB修復に加えて染色体高次構造の維持や動態の制御が重要な役割を果たしていると考えられるが、その分子メカニズムは不明である。 染色体高次構造の時空間制御に関わるタンパク質としてSMCファミリータンパク質が知られている。SMCファミリータンパク質はホモまたはヘテロダイマーで巨大なリング状の構造を形成し、姉妹染色体の接着や、染色体の凝集に寄与しているタンパク質群であるが、近年、DNA損傷修復においても重要な役割を果たしていることが報告されている。SMC様タンパク質であるRecNはバクテリア間で高度に保存されているタンパク質で、DNA損傷によって発現が誘導される。recNを欠損した大腸菌細胞は電離放射線や、複製阻害剤であるマイトマイシンC(MMC)に対して高感受性を示す。recN欠損細胞をMMCで処理すると、大腸菌の染色体に相当する核様体が断片化した様子が観察される。RecN精製タンパク質を用いた生化学的解析から、RecNタンパク質はssDNAとdsDNAをテザリングする活性を持ち、RecA依存的なD-loop形成を促進することが明らかになっている。これらのことから、RecNは相同組換えを介したDSB修復において必須の役割を果たしており、染色体の高次構造を制御することで、RecAによるDSB修復の促進に関与していることが示唆されている。そこで、本研究では、RecNが持つ核様体の動態を制御する機能がDSB修復機構において果たす役割を明らかにするため、RecNの欠損で見られる細胞レベルの影響と分子レベルの影響の関連性について詳細に解析した。 今回、私はRecNの発現タイミングが核様体の構造と生存率に及ぼす影響について調べるために、recN遺伝子が本来持っているDNA損傷に依存して発現誘導が起こるSOSプロモーターからアラビノースの添加により発現を誘導できるPBADプロモーターに置き換えたRecN発現プラスミド(pBAD-RecN)を構築した。このプラスミドでrecN欠損細胞を形質転換後、SOS誘導型RecNと同様にMMC処理開始直後にアラビノースを添加し、RecNを発現誘導したところ、MMC処理中も核様体は正常な構造が維持され、断片化は観察されなかった。次に、MMC処理後90分の段階でRecNの発現誘導を行ったところ、90分の段階ではΔrecN細胞に特徴的な核様体の断片化が観察された一方で、120分(RecN発現誘導後30分)の段階では正常な核様体構造を持つ細胞の割合が増加し、細胞の生存率も野生型細胞と同程度まで回復が見られた。これらの結果から、DSBによって核様体構造が断片化した後でも、RecNの発現誘導によって核様体構造と細胞生存率を回復させることができることが分かった。次に、HR経路の後期ではたらくRuvCを欠損したruvC欠損細胞と、recN ruvC欠損細胞において、MMC処理後の核様体構造を観察したところ、ruvC欠損細胞では細胞の中央に凝集した核様体や無核細胞が観察されたのに対し、recN ruvC欠損細胞ではrecN欠損細胞と同様に核様体の断片化が観察された。さらに、recN ruvC二重欠損株にpBAD-RecNを導入し、長時間のMMC処理を行って核様体が断片化した後にRecNを発現誘導させたところ、核様体がrecN欠損株で観察されるような断片化した核様体を持つ細胞が減少し、ruvC欠損細胞で観察されるような細胞中央に凝集した核様体を持つ細胞や無核細胞が増加した。これらのことから、RecNは相同組換え修復においてRuvABCが関与するホリデー構造解消の過程よりも早期の過程で機能するタンパク質であり、核様体の再構築はRecN発現誘導による相同組換え修復の再活性化によって起きていることが示唆された。 次に、MMC処理と同時にRecNを発現誘導した時と、MMC処理によって核様体が断片化した後に発現誘導した場合のRecNの細胞内局在を比較するために、pBAD-RecNプラスミドにあるrecN遺伝子のN末端にGFPタグを付加したプラスミド(pBAD-GFP-RecN)を構築した。まず、pBAD-GFP-RecNをrecN欠損細胞に導入し、MMC処理とアラビノース添加によるRecN発現誘導を同時に行ったところ、RecNは核様体上に局在していた。SOS誘導型のプラスミドを導入したrecN欠損細胞に対しても同様の実験を行った場合でも、RecNは核様体上に局在していることが分かった。しかし、pBAD-GFP-RecNを導入したrecN欠損細胞をMMCで90分処理した後にアラビノースを添加したところ、MMC処理とアラビノース添加を同時に行った場合とは対照的に、RecNは断片化した核様体間(核様体ギャップ領域)に局在していた。さらに、RecNが局在していた核様体ギャップ領域で、断片化した核様体の再構築が起きているのかを調べるために、MMC処理したΔrecN細胞にRecNを発現した際の動態をライブイメージングにより解析した。その結果、RecNが局在していた核様体ギャップ領域で断片化した核様体が結合し、再構築される様子が観察された。これらの結果から、recN欠損細胞において、RecNのギャップ領域への局在はDSB部位への結合を反映していることと、核様体ギャップ領域に局在するRecNはDSB修復を促進することで核様体構造を再構築していることが示唆された。さらに、RecNがギャップ領域においてHR経路に関わるRecAと共局在しているかを調べるために、C末端にmCherry蛍光タンパク質を付加したRecAを発現するプラスミド(pRecA-mCherry)とpBAD-GFP-RecNをΔrecA ΔrecNに導入し、MMCで90分処理した後にアラビノース添加によってRecNを発現誘導したところ、RecNはRecAと共に核様体ギャップ領域で共局在していることが分かった。 以上のことから、ΔrecN細胞で観察されるDSBに依存した核様体の断片化は、染色体構造の不可逆的な崩壊を反映したものではなく、RecNの発現のみで再構築が可能な状態、すなわちHR修復が中断されている状態を反映していることが分かった。さらに、HR修復が中断されている間、核様体ギャップ領域に存在するDSBでは、RecAヌクレオプロテインフィラメントがDNAの分解を防ぐ役割を果たしていると考えられ、RecNはRecA依存的にギャップ領域に結合すると、RecAによるHR反応の再活性化を引き起こすことでDSB修復の促進と核様体の再構築関与していることが示された。今回の結果は、RecAが持つ相同鎖の探索と、DNA鎖交換反応という2つの機能が時間的・空間的に分離可能であり、SMC様のRecNがRecAフィラメントと核様体の両者の動態を制御することによって一連の反応を促進する必須の役割を果たしていることが明らかになった。application/pdfdoctoral thesi

    Improving the Engagement to Class Lessons of High School Students with Developmental Disabilities : Utilization of Applied Behavior Analysis in Special Needs Education in Regular Schools

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    application/pdf【問題の所在】応用行動分析(以下,ABA)は有効な教育的支援方法であるが,特に高校でのABAの実践研究が少なく,その発想が広まっていない。その背景には,日本の教師文化や行動療法への誤解,実施に伴う教師の負担等があると思われる。しかし,教師の多忙化解消,プライド回復のためにはABAは有効である。現状では,1つ1つの実践事例を報告共有することが必要で,そうした実践報告として,高校定時制の発達障害の生徒の授業への取り組みを改善した3事例(対象生徒計5名)を取り上げる。 【方法】事例1:3名のADHD傾向の男子の授業への取り組みの改善を,10分間取り組み後の2分間おしゃべりタイムという賞賛システム等で行う。事例2:ADHDの女子の授業取り組みの改善を,事前の筆記用具貸与と事後の賞賛,授業改善等で行う。事例3:取り組みの悪い男子への介入をベースライン測定しながら検討していく。 【結果】事例1:2分間おしゃべりタイム等賞賛システムで,3人の取り組みが著しく改善した。事例2:当初の賞賛システムだけでは,取り組みが改善しなかったので,当該生徒の特性に合った授業での視覚提示,アクティブ化を行った結果,取り組みが改善した。また,他の生徒にとってもよい授業の提供となった。事例3:ベースライン測定をしているうちに当該生徒の授業取り組み状況が改善した。 【考察】ABAによる賞賛・強化システムの創意工夫で,ADHD傾向の生徒たちの授業取り組みが改善する。教師のストレスは少なく,プライドも保て,生徒との関係も良好である。また,当該生徒の特性に合った授業の提供が強化子になり,他の生徒にもよい授業の提供する結果になった。また,介入方法が未定なまま,ベースライン測定を開始することで目標の設定,チーム支援の開始,観察者効果等で改善をもたらしたり,よりよい介入方法を検討したりすることにつながる。[Problems] Applied Behavior Analysis (ABA) is an effective educational support method, but there have been few practical studies of ABA, especially in high schools, and the concept has not spread. This may be due to the culture of teachers in Japan, misunderstanding of behavioral therapy, and the burden placed on teachers in implementing ABA. However, ABA is effective for relieving teachers’ busy schedules and restoring their pride. In the current situation, it is necessary to report and share each case of practice one by one. As a report of such practice, we will discuss three cases (five students in total) of improving the engagement to class lessons of students with developmental disabilities in a part-time high school. [Methods]Case 1: Improve the engagement of three ADHD-prone boys in class using a praise system of 2 minutes of chatting time after 10 minutes of engaging to class lessons. Case 2: Improvement of ADHD girl’s engagement by lending her writing materials before class, praising her after class, and providing good lessons. Case 3: Intervention for a boy with poor engagement will be studied with baseline measurement. [Results] Case 1: Using a praise system such as 2-minute chat time, the three students’engagement to lessons improved significantly. Case 2: The initial praise system alone did not improve her engagement, so visual presentation and activation in class suited to the student’s characteristics improved her engagement to class. This also provided good class lessons for other students. Case 3: The student’s engagement in the class improved while the baseline measurement was being conducted. [Discussion] Ingenuity in the praise and reinforcement systems based on ABA improved the engagement to lessons of students with ADHD tendencies. The teacher’s stress was low, his pride was preserved, and his relationship with the students was good. In addition, starting baseline measurements without deciding on an intervention method could lead to improvement through goal setting, team support, observer effects, etc., and could lead to consideration of better intervention methods.研究論文departmental bulletin pape

    センゴ ニホン キギョウ ノ アーカイブズ コウチク ニ カンスル キソテキ ケンキュウ ヤマイチ ショウケン オ ジレイ トシテ

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    学習院大学Gakushuin University博士(アーカイブズ学)Doctor of Philosophy in Archival Science民間企業の保有する記録は、近年の日本においてその管理とアクセスが前進しつつある公文書と同様に、政治・行政のみならず、経済や社会の活動を含めた総体的な理解を促し、ある時代の実相を後世に伝えるアーカイブズの形成に不可欠である。本研究はそのような認識を起点に戦後の山一證券が残した記録をアーカイブズとして構造的に理解し、関係する機関の資料とのかかわりを明らかにしながら、アクセスのための編成とメタデータ記述の実践例を提示すること通じて、広く適用可能な企業アーカイブズの構築に向けた基礎的な方法論を考察したものである。 序章では、わが国におけるアーカイブズ研究の推移を概観しながら、特に民間企業の保有する記録に対するアーカイブズ学の視点からの研究や編成記述の実践例が乏しい現状を指摘した。その要因として、第三者から企業の内部に蓄積された資料にたどりつくのが容易でないことや、企業が蓄積した記録をアーカイブズとして利用するイメージや組織構造との関わりについての基礎的な理解が企業側や利用者側にも未だ定着していないこと等を挙げた。課題解決のための方法として、戦後の山一證券を事例に、同社の記録管理システム、同社の機能と記録の性格、外部機関の記録との関係性を考察し、同社を出所とする未確認の記録を含めた記録群の総体を「山一證券アーカイブズ」として、その全容を示し、アクセスを導くための記述を試みる必要性を述べた。 第1章では、本研究の素材として使用した東京大学経済学図書館所蔵「山一證券資料(第1期資料)」の特徴(出所・来歴・構造)を分析し、同社の組織構造とその機能を明らかにした。同社の組織は、「本社部門」と「営業部門」に大別したうえで、「本社部門」はさらに経営層に対する補佐や会社業務全般に対する管理を行う「全社的スタッフ部門」と証券業務に関する商品について「営業部門」を支援する「営業支援部門」から構成される。現時点で第三者がアクセスできる「第1期資料」は、同社の「企画室」や「社史編纂室」で収集・保存した記録を出所・来歴としていることから、「全社的スタッフ部門」の経営に係る記録が体系的かつ豊富に収録されている一方で、「営業支援部門」や「営業部門」の記録はあまり収録されていないことを解明した。 第2章では、企業記録の保存の経緯を理解するために不可欠な同社の記録管理システムについて、その成立の背景と内容、変遷、運用実態を考察した。同社は1961年に最初の記録管理のルールである「文書取扱要領」を制定し、「文書保存期間一覧表」で示した文書類型と保存期間の設定は、その後の同社の記録管理に影響を与えた。一方で、「その他一般」の文書類型として、社史編纂を想定した類型を規定し、「常務会」や「部店長会議」などの重要会議議事録もこの類型の中で永久保存とするなど、社史編纂にも一定の理解を示していたことに独自性が認められる。ただ、このような社史編纂についての意識が芽生えつつも、社史資料としての保存が「情報化時代」における事務の合理化と十分に整合しないと考えられたことで、担当部門へ移管し、アーカイブズを構築するような道が拓かれることはなかったことを明らかにした。 第1章と第2章は、同社の組織構造や機能、記録管理システムの把握を目的としたものであり、これらにより得られた知見を本研究の基礎として、第3章から第6章までは、同社の企業活動のプロセスごとに、その機能と記録の性格について詳細に考察を加えた。  第3章では、企業の意思決定に関わる記録について、同社の「常務会」の運営と稟議制との関わりに着目し、同社の意思決定の仕組みや意思決定に係る記録相互の関係性を考察した。同社は、1965年6月に稟議制を導入したが、主に日常的な業務執行に関わる事項を対象とし、最終的には「常務会」で決裁していた。一方、「常務会」の付議事項にはこの他に、「構成員付議事項」として経営方針の策定などの戦略的な事項も対象としており、稟議が唯一の事案決定手続ではなかった。同社の意思決定システムは、「取締役会」を形式的には最上位の意思決定機関としつつも、基本的には「常務会」が実質的な機能を担っていた。「常務会議事録」の記述内容をみていくと、時代が下るにしたがって、その運営も議論中心から報告中心に移行していることが確認された。その背景として、経営環境の変化による「常務会」の前段階での事前調整の増加などが考えられる。同社の事例を通じて、企業の意思決定過程の把握のためには、意思決定機関の運営状況の変化に注意を払いつつ、その前段階の検討・調整会議体に係る記録も一体的に理解していく必要があることを明らかにした。 第4章では、第3章で見た企業の意思決定に関する情報が、企業内でどのように伝達・共有されたか、そのコミュニケーション手段を整理しながら、同社の2つの社内報を事例に、その性格と価値を考察した。同社の2つの社内報はそれぞれ異なる編集方針を持っていたが、相互に補完しながら、同社の「基幹文書」(書簡・通告・通達・部店長会議資料)などの他のコミュニケーション手段を補完する機能を発揮していたことや、一種のドキュメンテーション機能により有意義な情報を含み、他の記録・アーカイブズの関係性を説明する資料となることを実例で示し、「社内報」を保存・利用する意義を明らかにした。一方で、同社の自主廃業の原因となった重大な経営情報(簿外債務の存在)について共有されることがなかったように、社内報は、当時の経営陣の意向によって記事の内容が操作・反映されるという記録としての限界性も持っていることを指摘した。 経営部門で意思決定された営業方針等が社内で伝達・共有されたのち、営業活動が具体的に実施されることになる。そこで第5章では、同社の「企業収益の根幹」と位置づけられていた「支店営業部門」の営業活動に焦点を当て、営業活動に係る機能や記録の性格を考察した。「第1期資料」には、「支店営業部門」に係る記録がほとんど残されていないものの、営業活動に係る法規制や業界団体の自主ルール(以下、法規制等)や、同社が自主的に規定した社規・令達を精査することを通じて、同社の営業活動の具体的な機能や記録の性格の把握が可能となることを明らかにした。さらに、外部の目による営業活動の実態評価の手段として位置づけられる大蔵省検査に係る記録の分析を通じて、法規制等に基づく法定帳簿などの「静的な記録」だけではなく、法規制等が実際にどのように運用されているかを把握するため、当局と証券会社の間で取り交わされた「動的な記録」も営業活動に係る記録として重要な意義を持つことを明らかにした。 第6章では、第5章で実施される営業活動とその成果について、社外への説明責任を果たすために、公式に発信する広報活動(広告宣伝、企業情報開示)に着目し、その活動に影響を与えた規制・規範や同社の社外広報の所管部署の変遷や機能、発生する記録の性格について考察した。同社は、1982年9月に「広報部」(1986年2月「広報室」に改称)の設置以降、広報活動の効率化が進み、広報活動の目的・手段・対象にも広がりを持つようになったが、「広報部」は、窓口としての調整機能を果たすのが主な役割であった。同社の経営に重大な影響を与えるような折衝の窓口は依然として「企画室」が対応し、専門的な説明を必要とする社外広報の主体も引き続き、本社の各所管部署が担っていた。このことから、同社の「広報部」設置以降の社外広報活動に係る記録を把握する際は、「広報部」設置前と同様に、「広報部」で保存されている記録だけでは不十分で、社外広報を実施した際に連携した各所管部署の作成・保存した記録にも注目する必要がある。さらに、社外広報は、経営陣の開示姿勢により一定の限界を持つこともあわせて指摘した。 第7章では、同社の外部に目を向け、免許制下において同社の経営に大きな影響を与えていた大蔵省証券局(以下、証券局)の公文書管理に着目し、証券局時代に蓄積された監督行政に係る公文書の性格や管理の実態と同社の保存した記録との関係性を考察した。証券局で作成した監督に関する記録の国立公文書館への移管状況や金融庁等での保存状況の調査を通じて、個別の証券会社に関する記録は、基本的には所定の保存期間経過後は廃棄措置をとっており、国側のアーカイブズとして残されないことを明らかにした。一方で、監督を受ける側にあった山一證券では、一定の残存資料を認めることができ、監督行政に係る記録を極力残そうとする姿勢が確認できた。個別の証券会社への監督行政の実態を把握するには、国立公文書館や金融庁に残された公文書へのアプローチでは不十分であり、同社の内部で蓄積した監督行政機関との間で作成・取得した記録にもアプローチしていくことが有効であると考える。規制・監督を受ける企業においては、行政機関から個別に受領した公文書に加え、企業自身が作成した行政機関とのやりとりを示す私文書もその信頼性に限界がある点に留意する必要があるものの、ともに社会が共有すべきアーカイブズとして残される意義の大きさを改めて指摘した。 第8章では、これまでの考察を踏まえ、山一證券が取得、作成した記録へのアクセスのための記述について考察した。すなわち、同社を出所とする「山一證券資料」をはじめとするさまざまな所蔵機関が管理する資料や未確認の記録を含む記録群の総体を概念的に「山一證券アーカイブズ」として捉え直し、基本となるISAD(G)によるフォンドレベルの記述の検討に加えて、機能と記録との関係に注目したISDFやシリーズシステムの考え方も参考としながら、現実的な適用に必要な見直しを踏まえて、同社の業務の機能に注目した編成により、同社の内部で蓄積された記録の構造の表現を試みた。さらに、山一證券や同社と関わりの深い関係機関に関する情報記述については、ISAAR(CPF)による記述を補うことで「山一證券アーカイブズ」の全容を捉えることが可能となる点も指摘した。  終章では、本研究の総括と今後の展望を示した。本研究は、戦後日本における企業のアーカイブズの構築のために必要となるアプローチについて、山一證券を事例に、企業一般にも適用可能な基礎的な方法論を模索するものであった。今後、本研究で示した方法論が他の企業において、どこまで適用可能であるか、企業アーカイブズの構築に向けた事例研究を継続・蓄積し、より一般化したものにしていく必要がある。さらに、デジタル社会における記録をどのように企業アーカイブズとして取り扱っていくか、アーカイブズについての記述の国際基準や行政文書の電子化の動向も見ながら考察していく必要があると考えている。application/pdfdoctoral thesi

    コクゴ ニ カンスル ヨロン チョウサ ノ カンヨウク トウ ノ イミ ヤ イイカタ コウモク オ メグル ゲンゴ キハン イシキ チョウサシャ ガワ ノ イシキ ノ ヘンカ オ チュウシン 二

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    application/pdf文化庁国語課が毎年行っている『国語に関する世論調査』のうち、「慣用句等の意味や言い方」項目に関する、調査者である国語課側の言語規範意識の変化について、平成22~令和3 年度の調査を対象に論じた。国語課側による世論調査の報告記事では、問題にしているのはあくまで意味や言い方が「本来か非本来か」であって「正しいか誤りか」ではない、という姿勢が一貫している。さらに、最近になるほど、明らかに、「本来の意味/言い方である/ない」という断定を避けようという意識が強まってきている。そして、国語課関係者のメディアでの発言では、最近になるほど、メディアでの「本来・非本来」→「正・誤」という「変換」への不満・違和感と、何が「本来」なのか知ってもらうのは望ましいがそちらにひき戻そうという意図はない、ということを強調するようになっている。これは、調査結果が「変換」されてメディアで報じられることで「本来」の意味・言い方の勢力が強まることに対する、「国語に関する世論操作」「巧妙な矯正促進」といった言語研究者側からの批判が念頭にあってのことと考えられる。研究論文departmental bulletin pape

    ウラベ ヒロシ ガ メザシタ マナビ 2 シンコウ キョウイク ノ ヘンシュウ ト シッピツ

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