Bukkyo University
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Introducing the Newly Found Histrical Material “The Copy of Old Records about Jyogonin Temple (浄厳院)” (Volume 2)
The Milieu of “Nietzsche” and The Milieu of the Overseas Student Zhou Shuren
本論では、テキスト調査により、周樹人(のちの魯迅)が留学時代に書いた論文である「文化偏至論」に記述されているニーチェの言説は、彼がニーチェの原書を読んでまとめたものではなく、桑木厳翼『ニーチェ氏倫理説一斑』から直接翻訳されたものであることを初めて発見し、当時清国留学生であった周樹人が実際に直面した「ニーチェ」の真相を実証的に明らかにしたものである。その上で本論では、これまでの先行研究における「魯迅とニーチェ」の関係の枠組みにおいて論じられてきた「ニーチェ」は、ほとんど留学期の周樹人が実際に直面した「ニーチェ」ではなく、「魯迅」となった以後の「魯迅」を想像することによって構築された「ニーチェ」であると指摘した。さらに留学生周樹人の周辺の「ニーチェ」とその周辺を考察し、ドイツ語、丸善、高山樗牛および「美的生活論争」などを含め、当時の「魯迅」がニーチェに接していた思想的環境を再現することを試みた。周樹人ニーチェ周辺桑木厳翼個人主
The Role of Boundaries in Disney’s Zootopia : Boundaries that Imply Dystopianism
本稿は、社会記号論(social semiotics)の枠組みに依拠し、視覚的構成(visualcompositions)におけるフレーミング(framing)、すなわちビジュアル記号がどのような枠(フレーム)のなかに配置されるのかという観点にもとづきながら、ディズニー映画『ズートピア』において、ユートピアがあっけなく崩れ去り、温存されてきた差別が露呈してしまうこと、つまりズートピアがディストピアに陥ってしまうことを論じていく。とりわけ、ズートピアで形成される物理的境界線、および草食動物と肉食動物の比ゆ的境界線としての役割を果たすクロウハウザー(Clawhauser)に注目する。ディズニー社会記号論フレーミング境界線ディストピ
The Distribution of Vacant Land and Its Characteristics in Meiji-Era Kyoto
19 世紀中期の政治的混乱や明治政府による様々な制度変更(新制度の実施)によって、19 世紀後期の京都は社会的に、経済的に衰退していたといわれている。そうした状況を空間的に表現したものが市街空閑地である。明治3 年は市街空閑地が下京に多く分布していたが、明治12 年までにその大半が構造物によって充填された。一方、明治12 年では市街空閑地が上京・御所西部に多く分布する傾向がみられた。旧市街に市街空閑地を生じさせた諸条件は上京・下京ともに共通している。そのため、市街空閑地の分布状況からみれば、明治3 年頃までは上京において構造物による市街空閑地を充填する働きが強く、そうした働きは明治12 年頃には下京において強かったことが考えられる。京都旧市街のなかでも下京(商業地)と上京(住宅地)とで異なる土地需要が、市街空閑地の分布に差異をもたらしていたことが想定できる。空地取調簿市街空閑地明治期京都元治大火焼け地
Literature and Language Education : An Analysis of Questionnaire Responses of First-Year English Majors at Bukkyo University(11)
The Early Trajectory of Saitama Children’s Home I : The Footprints and Thoughts of Joshin Kojima
埼玉県で初の児童養護施設である「埼玉育児院」については,その成り立ちに不明瞭なところが多く,特に,創始者である小島乘眞は途中で育児院を辞職している。小島乘眞は天台宗の僧侶であり,苦難の末に育児院を開設している。しかし,法人設立の認可を受け,代表が乘眞ではなく,当時,黒須銀行の頭取である發智庄平に変わっている。乘眞は現在の埼玉県嵐山町にある安養寺の住職であったが,私財を整理して育児院の法人認可を行っているが,その後,8 年で身を引いている。本研究は,初期の「埼玉育児院」に何があったのか,また,乘眞はなぜ育児院を始め,辞めたのかなどについて明らかにしていくものである。 論文構成としては,創始者である乘眞についての全体像を抑える「埼玉育児院初期の軌跡1―小島乘眞の足跡と思想―」,さらに,なぜ,小島乘眞が埼玉育児院を離れたのかを中心とする「埼玉育児院初期の軌跡2―小島乘眞と發智庄平―」の2部構成とする。 本研究で,従来,小島乘眞として写真発表されていた人物が違っていたこと,また,唯一の写真として発表されている「埼玉育児院の集合写真」がなぜ撮られたのか,7歳で亡くなった娘の存在や父親の状況など,現在,明らかになっていないものを調査究明した。さらに,嵐山町から東松山に移転するきっかけになったとされる,檀家との諍いについても当時の資料から明らかにした。埼玉育児院赤裸々の告白安養寺埼玉育兒院月