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Biological study on tau pathology in the entorhinal cortex toward Alzheimer's disease prevention
学習院大学Gakushuin University博士(理学)Doctor of Science患者のquality of lifeを著しく低下させる認知症の患者数は、超高齢化社会の訪れとともに増加の一途を辿り、これは喫緊の社会課題の1つである。認知症患者のおよそ7割を占めるアルツハイマー病患者の脳内では、過剰にリン酸化されたタウタンパク質の凝集体が存在することが知られている。タウ病理は、嗅内野と呼ばれる脳領域で最初期に出現した後、Braakステージと呼ばれる典型的な様式に従い進行し、その進行は認知機能の低下とよく相関する。そのため、初期段階でのタウ病理進行の抑制が認知症発症を抑制すると考えられる。しかし、最初期の嗅内野のタウ病理で特徴づけられる“嗅内野ステージ”では、①明確な認知機能低下を示さないため、患者のスクリーニングができず、②それゆえ有効な治療法も確立されていないという問題がある。本研究では、これらの問題を解決するため、マウスモデルを用いて、嗅内野のタウ病理存在下における行動学的異常および機能的な脳ネットワーク異常を探索し、アルツハイマー病の超早期病態への新規介入戦略の可能性を示すことを目的とした。
第二章では、嗅内野のタウ病理を反映する行動学的変化を探索するため、嗅内野に特異的に存在するグリッド細胞が、経路統合という空間ナビゲーション機能に寄与することに着目した。経路統合能とは、出発点と現在地点間の相対位置を認識する能力である。マウスモデルで経路統合能を測定するタスクとしてL字迷路試験を検討し、化学遺伝学的な嗅内野の神経活動の抑制によりそのスコアが低下したことから、本試験の嗅内野依存性が確認された。さらに、嗅内野に顕著なリン酸化タウの蓄積を示す6ヶ月齢のPS19マウスモデルにおいて、野生型よりもL字迷路試験のスコアが低下したことから、嗅内野へのリン酸化タウの蓄積と経路統合障害の関連が示された。以上の結果は、タウ病理による嗅内野の機能低下を反映するバイオマーカーとして、経路統合能測定が有用であることを支持する。
さらに、第三章では、嗅内野のタウ病理によって引き起こされる脳ネットワーク変化を明らかにするため、空間探索タスクにおける嗅内野を含むナビゲーション関連ネットワークの変化を探索した。脳ネットワークは、多数の脳領域クラスターによる協調活動や、それらのバランスにより機能的に調節されている。そこで、神経活動を反映する分子マーカー(c-Fosタンパク質)を用いて、嗅内野のリン酸化タウ蓄積を示す6ヶ月齢のPS19マウスと、その対照群である野生型マウスにおける機能的ネットワークを解析した。野生型マウスでは、空間探索により、ナビゲーション関連領域におけるc-Fos陽性細胞数の有意な増加と、機能的結合性強度の有意な増加が観察された。また、タスク下の機能的ネットワークに対するグラフ理論解析および因子分析において、c-Fos発現パターンでクラスタリングされた3つの脳のモジュール構造が同定された。1つ目は、前頭-体性感覚運動皮質および海馬前部から構成され、空間探索における環境馴化と関連した。2つ目は脳梁膨大後部-感覚情報処理皮質および傍海馬領域、視床前部から構成された。3つ目は、報酬系や扁桃体、海馬後部を含む辺縁系で構成され、空間探索における情動指標と関連した。
一方で、PS19での変化は病理の中核であった嗅内野に留まらず、タスク時のc-Fos陽性細胞数は脳全体で野生型の70%程度に低下した。また、タスク時の機能的結合性強度は、嗅内野を含む傍海馬領域に加え、脳梁膨大後部皮質, 新皮質, 皮質下領域で野生型に対して有意に減少し、ホームケージ下では脳梁膨大後部皮質の結合性強度が野生型よりも有意に増加していた。脳梁膨大後部皮質は嗅内野からの情報を新皮質・皮質下領域に接続するハブ領域であることから、タウ病理下での嗅内野の機能低下は、このような脳梁膨大後部皮質での異常な結合性変化を引き起こし、さらに脳全体の結合性強度に影響したと考えられる。
さらに、タスク下のPS19では、野生型で観察された認知機能と関連するモジュール構造が消失しており、in silicoでの脳梁膨大後部皮質を含む頭頂-後頭部の正常化で、部分的にその構造が回復した。そのため、頭頂-後頭部のネットワークの正常化は認知症予防に効果を示す可能性がある。一方、動機付けに関連する領域は、PS19における行動変化との関連が示され、脳に本来備わる機能的な代償機構の存在が示唆された。application/pdfdoctoral thesi
ショカ ケイフ ニ ミエル タヤス トクガワケ ダンセイ ノ ジンセイ ギレイ
application/pdf研究ノート(Note)departmental bulletin pape
マンシュウコク セイサク ノ シャシンチョウ ニカンスル コウサツ タカマツノミヤ キュウゾウ ケンコク 10シュウネン キネン シャシンチョウ
application/pdfdepartmental bulletin pape
タイ ノ ダイガクセイ ノ ニホンゴ ガクシュウ ドウキ ブンセキ カラ ガクシュウ イヨク ケイゾク ノ タメ ノ ホウホウ オ サグル
application/pdfdepartmental bulletin pape
スイメイ カセンメイ サワ サワ シガ コオリ ショウコウ オーストロネシアゴ ワ 2ド レットウ オ ウルオス
application/pdf日本及びモンスーン・アジア地域の河川名には、歴史的に言語・地域文化との密接な関係が認められる。水名「サワ」と「シガ」類はともにオーストロネシア語との同源語である。また、これらは伝播ないし定着した時期が前後に異なっていた可能性がある。水名分布と方言分布からは、南方の言語の影響は日本列島の本州には2度以上及んでいる可能性がある。departmental bulletin pape
キンセイ チョウテイ ノ ジツム シュウダン ト コッカ シャカイ
学習院大学Gakushuin University博士(史学)Doctor of Philosophy in History本論文は、近世朝廷を実務面で支えた口向(くちむき)役人を取り上げ、その組織や役割、存在形態などについて、国家および社会との関係から検討するものである。より端的にいえば、口向役人が朝廷運営の基底部、かつ朝幕関係の枠組みを支えた基礎部分であり、また朝廷と外部社会(武家・寺社・町方・在方・被差別民など)との媒介項であったことを論証する。かかる考察を通じて、この役人集団の存在を前提に、日本近世の国家・社会において朝廷がいかに存立しえたか、明らかにすることを目指す。
これまで近世朝廷研究では、主として天皇や公家を軸に、朝廷独自の様相が丹念に明らかにされてきた。それに対して本論文は、現場・実務レベルから朝廷を見据え、かつ近世史の諸分野――幕藩政治史・宗教史・都市史・村落史・部落史・文書管理史など――との接合をも企図する。朝廷をことさらに特殊視せず、実務集団の存在形態や社会・民衆との関わりといった点で幕府・諸藩と共通するような、朝廷の近世支配機構としての普遍性に着目する。
二部八章から構成され、これに加えて、先行研究の成果と問題点、および本論文の視角・課題を整理する序章と、全体の結論部分にあたる終章を設ける。
第一部「近世国家と口向役人」は、朝廷運営と朝幕関係の基盤解明を目的として、近世国家の構成諸要素――天皇・朝廷執行部、幕藩権力の諸主体――との関係から口向役人の諸相を考察する四章を配置した。
第一章「口向の組織構造と支配形態」では、口向役人の組織や処遇に関する基礎的考察を行う。近世の禁裏など各御所は、天皇・公家たちからなる表、女性たちからなる奥、そして両者を実務面で支えた口向の三領域に分かれており、これらの連携によって朝廷運営は成り立っていた。このうち口向では、帳簿の作成など財政面をはじめ、料理、営繕、記録管理、掃除など多岐にわたる職務が分掌されていた。その担い手である口向役人は、職制上、侍分と下部しもべとに大別され、たとえば寛政9(1797)年時点で、禁裏御所では169名の侍分、193名の下部が確認できる。口向は奥とともに「御内儀」とも称され、口向役人は奥(後宮)のトップである長橋局の配下にあった一方で、在京幕臣(旗本)の禁裏付の管轄下にもあった。口向役人の任免権は禁裏付の掌中にあり、人事への長橋局の関与は限定的であることからして、口向は幕府による朝廷統制の末端に位置づく、近世特有の実務組織であったといえる。
第二章「近世朝廷の記録管理と口向」では、「禁裏執次所日記」(計71冊現存、宮内庁書陵部蔵)を素材に、研究蓄積の薄い、朝廷における組織的な記録管理について考察する。本日記は、口向の筆頭職である取次(執次)の職務日記であり、口向役人に関する事柄のほか、朝廷の年中行事や、天皇・公家らの相続、幕府・諸大名による朝廷献上物など、きわめて多岐にわたる収載内容を持つ。取次が職務上の必要から本日記を利用したものと思われるが、その作成や簡便な利用のために、日記役を中心として口向の諸職が組織的に動員された。さらに記録の情報源は、朝廷の各部署などから取次にもたらされた文書類が中心であったとみられる。したがって、朝廷全体での出来事を総括した公的記録たる「禁裏執次所日記」の管理は、口向の組織的基盤と取次による情報集積によって存立していたといえる。こうした記録管理のあり方は、幕府の「右筆所日記」(いわゆる「江戸幕府日記」)との共通点を見出すことができ、幕府の記録管理システムに倣った可能性が考えうる。実際、禁裏付が特定の情報を「禁裏執次所日記」に記すよう取次に命じるなど、幕府としても本日記の収載情報を朝廷統制上、重要視していたことが窺える。
第三章「「安永の御所騒動」再考」は、安永2・3(1773・74)年において種々の不正に手を染めた口向役人180名が、幕府により一斉に処罰された「安永の御所騒動」(口向役人不正事件)について、口向役人を主軸に据えて総体的に再考する。騒動では大量の役人が処罰されたが、一斉に退身した場合は口向が機能停止となり、朝廷が不安定な状況に陥ることを幕府は懸念し、断絶対象は重罪人を出した家に限定した。加えて、先行研究が注目する勘定所系列の幕臣のみならず、従来からの在京幕臣(京都町奉行・禁裏付とその配下の役人ら)が積極的に関わることで新たな口向への統制の枠組みが構築された。この時の幕府の朝廷統制策は、公家や女官など朝廷全体にも及んでおり、その後も口向役人を中心としつつも朝廷構成員全体を縛るものとして機能し続けたとみられる。その意味で御所騒動は、幕府が朝廷への統制を強化した契機として把握しうる重大事件の一つであったと考えられる。
第四章「近世公武における御所取次の役割と特質」では、口向筆頭職の取次を扱う。前述の通り口向は幕臣である禁裏付の管轄下にあったが、彼ら(2名が月番交代で御所に日勤)は短期間で交代する役職であり、朝廷・公家社会には不案内であったため、取次による日常的な補佐が不可欠であったとみられる。ほかにも取次は、口向組織の実質的な統括や、奥・表への対応、外部社会(大名家・寺社・民衆など)の窓口といった役割を担った。7名前後が常置され、近世を通じて世襲で取次を輩出した家は19家確認される。このうち土山家は、近世後期(明和~文政期)において、幕府に対して家格上昇を企図した訴願運動を展開した。これは、近世初期に初代当主の土山武久が朝幕間を取り次ぐ独自の役目を果たしていたことと、それ以来、同家が取次を世襲で務めてきたことなどを由緒に、「御目見以上」(直参格)の待遇への格上げを願ったものである。幕府はこの要望を認めることはなかったが、土山家が家格上昇のためのロジックとして取次の役割を前面に押し出し、幕府との関係を強調している行動そのものに、幕府に寄与する役職としての取次の特質を見出すことができる。
つづいて第二部「近世社会と口向役人」では、朝廷と社会・民衆との有機的関係の解明を目的に、口向役人を媒介項とした朝廷と近世社会(おもに京都とその周辺地域)との様々な関わりを究明する四章から構成される。
第五章「口向役人の身分と存在形態」では、口向役人の担い手について考察する。口向役人のうち侍分は、地下じげ官人や社家、幕臣(口向上級職の数名のみ)が務めたほか、約半数は侍分のみに従事する者たちであった。一方の下部は、基本的に町人や百姓出身の者がその担い手とみられる。これらから、口向役人は多様な諸身分を内包する役人集団であったと指摘できる。そして彼らの居住地は京都とその近郊に広く点在し、侍分・下部ともに約7割が町方に居所を有していた。いわば近世朝廷の日常的な実務は、京都とその周辺地域を基盤として成り立っていたのである。侍分と下部はともに朝廷内の分限帳に登載され、かつ切米が支給されていたことから、口向役人は全体として支配身分に位置づけうる。その一方、彼らの縁戚関係をみてみると、それぞれのおもな通婚対象は、侍分が支配身分、下部が被支配身分の者たちであり、一部重なるものの大きく異なっていた。とはいえ、いずれも居住地や通婚圏は京都とその近郊が中心であり、口向役人は当該地域を人的基盤としていたといえる。
第六章「口向役人としての上賀茂社家」では、口向役人のうち侍分の二割程度を占めた社家の存在形態を検討する。口向役人に任用された社家はほとんどが上賀茂社の社家で構成され、19世紀初頭までに32家の任用が確認できる。そのうち約6割にあたる19家が経理担当職(賄頭・勘使・賄役)を経験した。社職に就けず、経済的基盤に乏しい上賀茂社の非役氏人にとって、口向役人は朝廷内における「受け皿」の一つであり、とりわけ経理担当職に就く場合には多くの役得が期待できた。こうしたことから、従来いわれている以上に、京都近郊の社家は朝廷内に根を下ろしており、近世朝廷の実務運営の担い手として不可欠な構成要素であったことが確認される。
第七章「近世の朝廷と周辺社会」では、京都とその近郊などの諸主体から朝廷に対する労働力や物品の供給のありようを明らかにする。まず、口向を通じて、京都の様々な用達が朝廷と出入関係を結んでいたが、なかでも人足請負人(いわゆる口入屋)は日用人足を供給し、これをもって口向役人(とくに下部)の雑務が補完されていた。こうした人足は、禁裏料村々や、後述する禁裏六丁町ろくちょうちょうからの直接の供出が本来のあり方であったとみられるが、18世紀を迎える頃に人足の代銀納化が進行し、都市下層民衆がその担い手となっていたものと思われる。一方で、こうした労働力とは異なる意味合いのものとして、被差別民による朝廷に対する独自の役割があった。彼らのなかには遠隔地(山城国外)の者も含まれるが、小法師こぼし役(御所での掃除を担う)の奉仕や、御太おぶと(草履)の献上のために上京し、それらへの応対は口向役人(それぞれ山之者、仕丁頭)が担っていた。こうした関係を活用し、自らの権利の維持・伸長を実現しようとする被差別民の主体的な姿勢も垣間みられ、注目される。
第八章「近世京都の禁裏六丁町と朝廷・幕府」では、近世京都の惣そう町ちょうの一つである禁裏六丁町が朝廷に対して果たした役割と、それを通した同町と朝廷・幕府との関係をみる。六丁町が担った御用の第一は、九門内外や各御所における掃除であった。このほかにも、儀式や行事などにおける各種の雑用を務めており、まさに六丁町は朝廷の日常を支える労働力の重要な供給基盤であったといえる。こうした恒例御用の担い手は、18世紀初頭には多くが請負人によって調達されており、同世紀末にはそれが全面展開されるに至った。ただし、御所の出火時の駆付人足などの臨時御用については町人自らが務めた。こうした六丁町の恒例・臨時の人足徴発については、口向侍分の修理すり職しきが管掌しており、いわば六丁町にとっての朝廷側の窓口となっていた。一方で、町奉行所は、人足数の定期的な把握や人足請負人の承認などを行ったほか、朝廷に関わる新規の御用を六丁町にたびたび課そうとした。六丁町はいずれもそれを忌避する姿勢をみせたが、やむを得ず新規御用を引き受けることもあった。
最後に終章では、本論文の成果と課題・展望を提示する。成果としては、①口向役人が朝廷運営の基底部として不可欠の役割を果たし、かつ朝幕関係(朝幕一体不可分の関係)の枠組みを支えた基礎部分であったこと、②口向役人を媒介に、朝廷が自らの存立基盤として、京都とその近郊を中心とした人的・物的資源に一定程度依存する構造を有したこと、おおよそこの2点を解明しえたことに集約される。近世朝廷の存立を支えた構造面を提示することに主眼を置いたため、時期的変化への言及は一部にとどまる結果となった。今後はその点をも留意しつつ、よりいっそう口向役人を軸に検討を進めることで、近世朝廷像のさらなる刷新を可能ならしめるのではないかと展望される。application/pdfdoctoral thesi
ロラン バルト ノ ミチナカバ ノ シガク セイ ト シ ヒヒョウ ト ショウセツ ノ ヒョウリュウ
学習院大学Gakushuin University博士(フランス文学)Doctor of Philosophy in French Language and Literature本研究は、ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915–1980)の1960年代後半から1980年までのテクストを通じて、彼が批評から小説へと移行するなかで書く行為にたいする思考がどのように変遷したのかを、「生のエクリチュールとエクリチュールとしての生の二重の問題(la double question de l’écriture de vie et de la vie comme écriture)」を中心に再検討し、その詩学を明確化することを主眼としたものである。
バルトはその執筆活動の初期は文学や演劇、あるいは社会現象などを対象に批評テクストを多く書いたが、晩年になると小説の執筆を志したことでも知られている。そして、この移行の道半ばには「生の記述(biographie)」をめぐる考えがあるように思われる。これは1971年に執筆された『サド、フーリエ、ロヨラ』の「序文」に端を発する考えであり、そこにおいてバルトは〈biographème〉というコンセプトを導入する。バルトは他者の文章を読む時、その細部に共感したり、心を惹かれることがあり、そのテクストの著者の嗜好や趣味、あるいは語へのこだわりに共鳴するこの経験を〈テクストの快楽〉と呼んだ。そして、バルトはこの快楽を喚起する要素を〈生の記述素〉(biographème)と名付けた。バルトは読み手としてテクストから〈生の記述素〉を享受し、そしてその快楽に基づいて、書き手としてもテクストを生産した作家である。いわばバルトは、読む行為と書く行為の2つのパースペクティヴから執筆活動に取り組んだのであり、この交差点に〈生の記述素〉が存在するのである。
本研究は、バルトのエクリチュールの変遷に関する先行研究を踏まえつつ、この作家の批評テクストと晩年の小説のエクリチュールを分かつものを明確化するために、バルトの仕事を便宜上3つの段階に分けて論じた。
第1段階は1960年代後半に焦点を当て、バルトが構築した書くための理論と、そこから生まれた〈生の記述〉および〈生の記述素〉のコンセプトの発展を整理した。分析の補助には同時代の思想家であるミシェル・フーコーや言語学者のエミール・バンヴェニストの中動態の議論を援用し、バルトのエクリチュール概念の特異性を明確化した。
第2段階は、1970年代前半から半ばにかけてであり、バルトのロマネスクの実践が見られる時期を設定した。この時期のテクストには、虚構的な枠組みや、人称代名詞の特異な使用法が見られる。これを〈生の記述素〉との関連において検討し、批評テクストが小説的なテクスト、つまりロマネスクへ移行するその過程を分析した。これにあたって、本研究では近年のバルト研究の傾向に沿って、高等研究実習院でのセミナー記録を補助資料として使用した。
第3段階では、1977年から彼の没年である1980年までの小説という形式に傾倒する時期に着目し、彼がいかにして小説執筆を決意し、実際に構想したのかを、〈死〉および〈喪〉の概念に光を当てて検討した。この年はバルトが小説を執筆すると公言した点において重要なだけでなく、最愛の母の死もまた訪れた年であり、これが彼のエクリチュールに大きな変革をもたらしたからである。プルーストさながら、喪を契機に〈批評の方〉から〈小説の方〉へと向かうバルトの軌跡を、複数のテクストおよび講義録をもとにして追った。その上で、本研究はダンテ・アリギエーリがバルトに及ぼした影響もまた考慮に入れた。それは、バルトは小説の構想段階においてこのイタリアの詩人から「創造にまつわる衝撃」受けたと覚書に残しているからである。プルーストとバルトの比較研究はこれまで多く存在するにもかかわらず、バルトの研究史において、このイタリアの詩人の存在は軽視されるきらいにあり、バルトが受けた「衝撃」が彼のエクリチュールにいかなる変革をもたらしたのか、いまだ明らかにされていないのも事実である。本研究はこの空白地帯を埋めるものであり、ダンテの影響を通じてバルトの晩年の言説を再検討することで、彼の生と死の、批評と小説の「道半ば(nel mezzo)」の詩学に新たな解釈を提示することにつながった。application/pdfdoctoral thesi
ソウゴウ ガクシュウ ノ タンサクテキ キョウイク カテイ ヘンセイ ノ イギ ニツイテ ショウガッコウ 6 ネンセイ ノ シャカイカ オ オウダン シタ タンキュウ ガクシュウ オ ジレイニ
application/pdf研究論文departmental bulletin pape
Phonological correspondence [k/x-p] (< [*kw]) in the North-South dialects of East Asian languages (Japanese, Chinese and Korean)
application/pdf本稿では、東アジア言語に見られるある種の音韻対応の傾向「k・x-p」について取り上げる。前半部分では、1国内ではじめて紹介する主題もあるので、その前提となる言語・文化的特徴に関する安部の既研究内容についての解説を行っておく。アジア・環太平洋の連続する広い領域には、「モンスーン・アジア(気候)」(Monsoon Asia)と呼ばれている気候特徴をその背景にもつ文化的共有現象が認められる。この領域には、神話、動物、植物、民俗、考古学などの文化人類学的な多くの共通性のほか、言語においても共通する現象や、同語源の蓋然性の高い単語の分布が認められる。それゆえ、この領域を「Monsoon Asia Cultural Sphere、MA文化圏」と安部(2003)で名付けた。そのユーラシア大陸側の文化境界線を、動植物の分布境界線の命名に倣い、「Monsoon Asia-ABE-Line」名付けた。また、このMA 領域の東アジア地域では、気候の寒冷・温暖の格差が南北の文化を2分している文化境界がある。その南北境界線は、日本列島の南北方言分布境界線(気候線)と、朝鮮半島の南北方言分布境界線、及び、中国の「秦嶺-淮河線 Qing-Ling = Huai-river = Line」を結ぶ、一続きの文化境界線を形成している(「Monsoon Asia Central Climate Line M . A . 中央気候線」と名付ける)。注目されるのは、このMA文化圏の東アジア言語である日本語・中国語・朝鮮語において、それぞれの南北方言に、共通した音韻対応(sound correspondence)の傾向を指摘することができることである。それは、b・p - m、d・t - n、*g・k・x -*gw・*kw・p(北―南)と示すことができる【表1】。この「音韻対応」の傾向は、概略北方が破裂音(plosive)的傾向、南方がnasal(or Labial、grave 暗音)的傾向での対立と把握することができる。 この南北での「音韻対応」の指摘は日本語・中国語・朝鮮語ばかりでなく、東アジア言語の研究にとって重要であると考える。なぜなら、この指摘によって、例えば以下のように、これまで別語源とされてきた基礎語彙「火」の語源が、皆同一語源(*pui) である可能性も出てくるからである。今後は、言語のこのような関連性から見ても、このMA文化圏というアジア・環太平洋領域を視野にいれていく必要がある。(本稿に関連する安部(2025. 3b、2025. 3c)も参照)Certain areas of Asia and the Pacific Rim are recognized as having culturally shared phenomena with climatological characteristics, known as “monsoon climates” (Monsoon Asia). Many cultural anthropological commonalities can be found in this area, including mythology, fauna, flora, folklore, andarchaeology. In addition, common linguistic phenomena and the distribution of words of the same etymological origin are present in this territory. Therefore, as a special cultural area, we refer to this area as the “Monsoon Asia Cultural Sphere”(M.A. Cultural Sphere). The Qinling-Huaihe Line, a prominent north-south cultural boundary in China, is also found within this area.To the east on the same latitude as this Qinling-Huaihe line, the north-south dialect boundary of Korean and the north-dialect boundary of Japanese exist in east-west succession. The north-south dialect boundary of the three regions can be interpreted as forming a single continuous dialect boundary from a linguistic point of view. Factors contributing to the common dialect boundaries in this position can be interpreted as being due to the large differences in climatic temperature and rainfall between the north and south. This north-south boundary, which is continuous in three regions - China, Korea and Japan - is tentatively named the ‘Monsoon Asia Central Climate Line’ (M.A. Central Climate Line). In the north-south dialects of this borderline, a certain phonological correspondence phenomenon exists that is common to the north-south dialects of Japanese, Chinese, and Korean that are bounded by this borderline, the phonetic correspondence [k/χ--p] (north--south). Other phonological correspondences [b/p--m], [d/t--n], [g/k/χ/h--p/b/f/ Φ /w ( ← *kw)] (north--south) can also be found. An oppositional tendency can be observed in these north-south differences in “phonological correspondence,” with the north-sounding voice being plosive and the south-sounding voice being nasal (or Labial, grave), respectively. This phonological correspondence can be used to highlight that words for “fire” in Chinese, Japanese, and Austronesian languages, which were previously thought to be separate words, may share the same ancestor (<[*apoi]). The interpretation of this north-south phonological correspondence is therefore important not only for Japanese, Chinese, and Korean, but also for the study of the languages of Monsoon Asia.研究論文departmental bulletin pape